本当の瞑想効果とは、喜びを見つけ、それを表現すること

今日は、最近ふと思った瞑想の効果について備忘録をば。

まず、ぼくはどうして瞑想に興味を持ったのかと言いますと『瞑想したら収入アップした!』というメルマガを読んだからでした。

なんと俗世まみれなのでしょう(^^;

 

 

で、瞑想したら本当に収入アップ効果はあったのかというと──確かに効果はありました。

ぼくの、フリーランス初年度年収は78万円でした。月収ではなく、年収です。1年フル稼働してコレ。ワーキングプアもいいところです(ToT)

でも瞑想してからこっち、堅調に収入が伸びていきました。とくに上級者向け瞑想を始めてからは、倍々ゲームで増えていきました。

20代後半、瞑想してから数年で収入1000万円前後になると、住宅以外はなんでも買えました。

約120人のフリーランスを束ねて仕事を回し、法人化したけど社員雇用は嫌だったので、ぼく自身もめちゃくちゃ働いて、とある書籍も出版しました。

端から見ると順風満帆だったようで、まぁなんというか……ある程度モテたりもしました(^^;

ぼくは、一浪一留のあげく名もない大学を中退し、就職できずフリーターしてたら疲れ切って引きこもり、引きこもり中に詐欺まがいの商品掴まされて借金抱えてましたから(^^;、1000万円の収入がすごいか普通かは人それぞれですが、はっきり言って……有頂天でした。

実力もないのに、様々な幸運に巡り会うことでの収入アップですので、確かに、瞑想の効果だったのだろうと思います。

 

 

でも、生活面はけっこうメチャクチャ。

とにかく働いてましたから疲れがドッサリ溜まり、瞑想は、その疲れやストレスを解消させるためにやっているようなものでした。

元々、悟りを開くとかそういうのには興味はないので、瞑想=ストレス解消という構図はそれでいいのですけれども、でもいつしか、瞑想で解消される以上の疲れをため込むようになっていたのでしょう。

日に日にこんな思いが膨らみはじめます。

「いったい、ぼくは何をやっているのか?」

大量かつ重い仕事を引き受けて、外注したり自分でやったり、朝から晩まで仕事詰めで休みもなし。たまに、ちょっといいところに飲みに行ったりして──いま考えると20代の若造がさぞ浮いてたことでしょう(^^;──その程度。

女の子と遊べる時間もありませんから、食事には行くけど親密なお付き合いまでには発展しません。

来る日も来る日も、写真やら図形やらプログラムやらにらめっこする毎日です。いや、まだそれらとにらめっこするくらいならいいのですが、面倒くさいお客さんの相手もしなければなりません。

「パソコン壊れたからってオレに電話するなよ!?」ってな感じです。

 

ビラ配りしていたころは、とにかくお金がほしかった。

「忙しくて大変」という成功者の話がうらやましくて、「大変でも、お金稼げてるんだからいいじゃないか。贅沢な悩みだ」と思ったものです。

でも実際に、限界まで忙しくなると半端ないです。時間がない、というのはもちろんですが、責任の重さが堪えるんですね。責任を遂行すべく時間が欲しいのに、その時間が与えられていないのですから。

そうしてついにある日、こんな事を決意したのです。

「仕事はもううんざり!カネなんて知るか。本当にやりたいことをやろう!」

とはいえ、定期で安定な仕事はいくつもありましたから、これが半減したところで生活には困らない、と思っていたのです。

が、しかし。

これを決意して3ヶ月で、ベースとなるお客さんがゼロになりました、ほんとに。

キャッシュフローが途絶えるとすごいもので、貯金もあっという間に底を尽きます。そもそもが、800万円の年収がないと支えられない生活レベルでしたので、貯金なんて瞬く間に消えました。

いちおう言い訳を試みるに……豪遊していたわけではなく、とにかく家賃が高いんです。IT業界っぽく東京港区に住んでいたので。

というわけで、本当の本気でキャッシュアウトする直前に急遽引っ越し。フリーランス集団は解散。慌てて営業活動を再開し、旧知の会社から紹介をもらうことでなんとか凌ぎました。

持つべきモノはコネですね(^^;

私事が長くなりましたが、いまは、多少のIT関連仕事を受けつつも、けっこう好き勝手に生きております。

以前ほどの収入はありませんが『自分の本当にやりたいこと』はそこそこできるようになっていると思います。このブログもその一つ。

 

話を瞑想に戻しますと、ぼくは瞑想生活12年目で、毎日2〜3時間は瞑想しています。これは、いま話した多忙を極めた時期にあっても同様に瞑想していました。まぁ、当時は瞑想ではなく睡眠になっていたかもですが。

その経験から推察するに、瞑想効果はとても機械的です。

ぼくが「アレをやりたい」「これや嫌だ」と思うことは、どれも実現してくれました。

「なんでもいいからとにかく稼ぎたい!」と思ったら、稼ぎをくれました。仕事内容問わず。

「もう嫌だ! 働きたくない!」と思った瞬間に、仕事がなくなりました。ちなみに、仕事の手を抜いていたわけではなりません。でも様々な偶然によって、申し合わせたように仕事がバタバタなくなったのです。

まさに、ぼくが考えた字面通りのものを引き寄せてくれました。それも、相当な馬力で。

つまり表面的に考えると、瞑想とは『船である』ということです。

 

瞑想するということは、豪華客船に乗り込むようなものです。ユートピアに連れて行ってくれるだけの性能がある客船です。

ですがあなたは、豪華客船のお客さんではありません。

船長なのです。

ヨーロッパ旅行のはずが、船長が羅針盤を見間違ってしまったがめに、南極大陸に行ってしまうかもしれません。

運転を間違えると、えらいことになります。

運命に奔走されているような気分です。

でもその運命は、じつは自分の意志で作り出していたなんだよなぁ、としみじみ思う次第です。

だから、船長の目を曇らせないためにも、常日頃の体調管理はもちろん、自分の表層意識──つまり感情を荒げない工夫も必要になってくることでしょう。

瞑想による深層意識の活性化と、工夫(引き寄せの法則等)による表層意識の沈静化。瞑想効果を存分に味わうためには、この2つが大切なのだと思います。

ただし本来、瞑想は、お金を稼いだり仕事を得たりするためのものではなないのですけどね。副産物ではありますけれども。そもそも論として、ぼくは最初からボタンをかけ間違えていたわけです。

 

ではもう少し、突っ込んで瞑想の効果をお話していきましょう。

最近、ぼくは『場』というのが分かってきた気がします。あるいは『存在』とも呼ばれています。

目を閉じて、呼吸を落ち着けて静まると、意識の遙か向こうには『場』がある──その距離は、遠くもあり近くもあるけど、いずれにしても確かに『場』がある、ということが分かってきた感じです。

テンパってたり、苛立っていたり、興奮していたりすると、『場』に至るまでの道のりは非常に荒れます。

さきほどの船とは別の例えで瞑想を説明すると、瞑想とは海に潜ることに似ています。

人の意識が『海』です。その海底には『すんごく楽しい場』があります。竜宮城のようなものでしょう。浦島太郎の昔話は、人の意識構造の暗喩なのかもしれません。

自分の意識が荒れてたまま瞑想すると、『台風(ストレス)』に阻まれてしまいます。『竜宮城(すんごく楽しい場)』に行きたいのに、誘導係の『亀(瞑想に使うマントラ)』はバタ足をするばかりで、深く潜ることができません。

波の狭間に翻弄されているだけで、なかなか深く入っていけないんですね。それでも、ストレスをダーッと押し出してくれるので、やらないより全然いいわけですが。

『台風』が収まれば、比較的すぃ〜っと心地よく海に潜ることができます。ただし、意識を『水圧(場から発生している楽しそうな雰囲気)』に慣らしておかないと、ある一定の深度まで潜った時点で気を失います。

気を失うといっても不快なものではなく、睡眠のような、それでいて睡眠じゃない何か。目覚めると、睡眠から覚めた感じでもないのに記憶が飛んでいる、というなんとも不思議な感覚です。

すごい人になると、常人では意識を保てないはずの『場』でも目覚めていることができるそうですが、ぼくはまだまだ。別に謙遜しているわけではなく、今は、幾層もある意識のどの位置に自分が到達できているのかが分かってきたので、そう思えます。

ぼくは、コンディションがいいと、ちょっと潜ってサザエくらいは摂ってくることができる程度です。竜宮城には到底到達できていません。

でもまぁ、この程度でも日常生活に求める効果効能は十分。サザエ、すんごく美味しいですから。

あとは、サザエの料理方法を間違えないよう気をつけるだけ。壺焼きにするつもりが、真っ黒焦げにしてしまっては元も子もありません。

こんな感じで、人は皆、『すんごく楽しい場』に向かって生きているのだと思います。

だから本来は、『瞑想の効果』を説明するのもおかしな話なんですけどね。それは人間生来の本性なのですから。

 

最後に余談ですが──先日、『エヴェレスト』という邦画を見ました。

劇中で、「なぜエベレストに登るのか」という問いがありまして、映画では「ここに俺がいるからだ」という表現をしていました。

映画は感動的だったのですが……このセリフに違和感を覚えまして。そもそも何を言いたいのかよく分かりません(^^;

登山家は、命を賭してまでなぜ山に登るのか? これを瞑想を軸に解釈するならこうなります。

まず、脳科学的には、登山という行為によって、脳内に、麻薬に匹敵する各種ホルモンがドバーーーッ!っと出てしまうからでしょう。

命を極限にまで追い込むと、死ぬ準備をするために甘美な脳内ホルモンが分泌されるそうですから、それを一度味わってしまうと、再びそのホルモンを味わいたくて、そこに至るまでの苦痛すら楽しく感じてしまう。ワクワクしてしまう。

この現象は、パブロフの犬で実証されているわけです。ブザー音を聞かせてから餌を与え続けると、次第に、ブザー音を聞いただけでよだれを垂らすようになるあの実験。人間も動物ですから同じです。

これがいわゆる『山に取り憑かれた』状態だと思います。ある意味、麻薬中毒者のようなものです。

つまり理由なんかない。理由がないという意味での「ここに俺がいるからだ」という表現にも見える。そうであるならば、それは本質ではない。

理由なんかないという意味でのセリフではなく、登山が、前述の『すんごく楽しい場』に至るためだとするならば一見納得はできます。『すんごく楽しい場』に至るために「ここに俺がいるからだ」という意味合いであるならば納得できる──一見すると。

でも実は、行き着く『場』は似て非なるものです。なぜならば、登山という活動と、瞑想という静寂は、相反する質ですから。

ぼくたちが行うべきは、『すんごく楽しい場』から宝物をたくさん持ち帰って、それをこの相対世界で表現することではないでしょうか?

登山に喜びを見いだすのではなく、登山で喜びを表現する。これが必要ではないでしょうか?

例えが回りくどくなったかもですが、これは、仕事でも同じです。

仕事が楽しいかどうかが重要なのではありません。好きなのかも重要ではありません。

瞑想でサルベージした喜びを、いかに仕事で表現するか?

これが重要なのだと思う最近です。

単純な話、いつもニコニコしている人と一緒にいれば、こっちも楽しくなりますよね。わざわざ山に登らなくても、喜びは、ぼくたちのすぐ身近にあるわけです。

 

だから瞑想で、意識の深奥に潜る。
持ち帰った喜びの使い方を誤らないよう工夫する。

玉手箱は、使い方によって毒にも薬にもなるのです。
だからぼくたちは、自由意志を持った個性として『ここにいる』のです。

活動に喜びを見いだすのではなく、活動で喜びを表現すること。
現段階で、ぼくが考え得る最大の瞑想効果は、この一点だと思う今日この頃でした。